蒲原有明2

 さて象徴詩がどういふ筋道を通つてわが詩壇に導かれたかは、今こゝに述べにくい。それは別に研究を要すべきことである。然し思つたよりも早い時代に始まり、ヴェルレエヌの死(一八九六年一月)がその機縁を作つたと云へば、さもこそと肯がはれる道理がある。即ち同年(明治二十九年)三月發行の「文學界」は上田柳村氏の草した、この落魄の詩人を紹介する記文を載せてゐる。この事はすでに「有明詩集」自註の中に誌しておいた。それから後になつて森鴎外氏は「めざまし草」の數號に亙つて「審美新説」を譯出した。これが一册の本になつたのは明治三十三年であるから、無論その前のことである。この「審美新説」には自然主義と象徴主義との關聯推移を説くこと詳で且つ斬新であつた。わたくし共はこのめづらしい藝術の部面のあることを知つて啓蒙された。それからまた少し程經て、今度はあの有名なシモンズの「象徴派運動」(一八九九年初版)に注意が向けられる順序となるのであるが、この本は長谷川天溪氏が最初に取寄せたもので、花袋、藤村、泡鳴の諸氏も、それにまたわたくしも、その本を借りて廻し讀みにした。藤村氏がわざわざ小諸からイブセンの「ボルクマン」を小包にして、これを見よと云つて送り越したと殆ど同時であつたらう。わたくしからはシモンズの本を廻送したかとおぼえてゐる。

 鴎外を語るといつても、個人的接触のごとき事実は殆ど無く、これを回想してみるよすがもない。をかしなことである。錯戻であらう。さうも思はれるぐらゐ、自分ながら信じられぬことである。
 それにはちがひないが、鴎外としいへば、その影は、これまでとてもいつぞわたくしから離れ去つたといふ期間はなかつた。それはむしろ離れしめなかつたといつて好い。頭のどこかに鴎外の言葉が聞える。聞く。その聞いたことを、わたくしがまた語るのである。
 わたくしの頭脳のなかに、或る方式で一のコスモスが成立し、そのなかに一社会が存在し、そのまた社会の一単位としてわたくしといふものが存在してゐた。さういふ機構を通して、鴎外の精神はわたくしの生活のなかに微細な点にわたつて影響を及ぼすやうに見えた。

 小山内君は一時謝豹といふ雅號を用ゐてゐました。それをおぼえてゐる人は恐らく稀でせう。もう十五六年も前のことになります。そのころ生田葵君のやつてゐた「活文壇」といふ雜誌に、知與子とか謝豹とか署名して、ちよくちよくシエレエの詩の飜譯が出たものです。「わが靈は魔に醉ふ舟か、夢を見る鵠の如」とか、「山、柯(こむら)、ま淵の間を」とか、さういふ詩句を讀むと行きわたつて充實してゐる中に、柔らかな調子がよく出てゐる。わたくしは全くこの未知の作者の技倆にひきつけられてしまひました。そこで生田君に頼んで、紹介されて、初めて謝豹君に會見する機を得たのです。小山内君がまだ麹町三番町に住まつてゐて高等學校に通つてゐた時代ですから、明治三十四年より後であつたとは思はれません。
 謝豹の雅號については、第一にその字面がおもしろい。それでわたくしは特に興味をもつてゐるのですが、何でもホトトギスの異名だといふことです。暢氣な話ですが序だからこゝに言ひ添へておきます。

蒲原有明

 わたくしが長谷川二葉亭氏の名を知りはじめたのは「國民之友」に出た「あひびき」からである。明治二十一年の夏のころであつたが、わたくしは未だ中學の初年級であり、文學に對する鑑賞力も頗る幼稚で、その頃世間にもてはやされてゐた「佳人の奇遇」などを高誦してゐたぐらゐであるから、露西亞の小説家ツルゲーネフの短篇の飜譯といふさへ不思議に思はれ、ただ何がなしに讀んで見ると、巧に俗語を使つた言文一致體――その珍らしい文章が、これがまたどうであらう、讀みゆくまゝに、わたくしの耳のそばで親しく、絶間なく、綿々として、さゝやいてゐるやうに感じられたが、それは一種名状し難い快感と、そして何處かでそれを反撥しようとする情念とが、同時に雜りあつた心的状態であつた。
 さてそれを讀み了つて見ると、抑も何が書いてあつたのだか、當時のうぶな少年の頭には人生の機微がただ漠然と映るのみで、作物の趣旨に就ては一向に要領を得なかつた。それにも拘らず、外景を描寫したあたりは幻覺が如何にも明瞭に浮ぶ。

 島崎氏の「若菜集」がいかに若々しい姿のうちに烈しい情※[#「執/れんが」、399-上-7]をこめてゐたかは、今更ここに言ふを須ゐないことではあるが、その撓み易き句法、素直に自由な格調、從つてこれは今迄に類のなかつた新聲である。予がはじめて「若菜集」を手にしたをりの感情は言ふに言はれぬ歡喜であつた。予が胸は胡蝶の翅の如く顫へた。島崎氏の用ゐられた言葉は决して撰り好みをした珍奇の言葉ではなかつたので、一々に拾ひ上げて見れば寧ろその尋常なるに驚かるゝばかりであるが、それが却て未だ曾て耳にした例のない美しい樂音を響かせて、その音調の文は春の野に立つ遊絲の微かな影を心の空に搖がすのである。眞の歌である。島崎氏の歌は森の中にこもる鳥の歌、その玲瓏の囀は瑞樹の木末まで流れわたつて、若葉の一つ一つを緑の聲に活かさずば止まなかつた。かくして「若菜集」の世にもてはやされたのは當然の理である。

若葉のかげ

薄曇りたる空の日や、日も柔らぎぬ、
木犀の若葉の蔭のかけ椅子に
靠れてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の調と暢びらかに。

獨かここに我はしも、ひとりか胸の
浪を趁ふ――常世の島の島が根に
翅やすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕うつらうつらの我ならむ。

半ひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに初夏の芍藥の、
薔薇の、罌粟の美し花舞ひてぞ過ぐる、

艶だちてしなゆる色の連彈に
たゆらに浮ぶ幻よ――蒸して匂へる
蘂の星、こは戀の花、吉祥の君。

嘉村礒多

 S社の入口の扉を押して私は往來へ出た。狹い路地に入ると一寸佇んで、蝦蟇口の緩んだ口金を齒で締め合せた。心まちにしてゐた三宿のZ・K氏の口述になる小説『狂醉者の遺言』の筆記料を私は貰つたのだ。本來なら直に本郷の崖下の家に歸つて、前々からの約束である私の女にセルを買つてやるのが人情であつたがしかし最近或事件で女の仕草をひどく腹に据ゑかねてゐた私は、どう考へ直しても氣乘りがしなくて、ただ漫然と夕暮の神樂坂の方へ歩いて行つた。もう都會には秋が訪れてゐて、白いものを着てゐる自分の姿が際立つた寂しい感じである。ふと坂上の眼鏡屋の飾窓を覗くと、氣にいつたのがあつて餘程心が動いたが、でも、おあしをくづす前に、一應Z・K氏にお禮を言ふ筋合のものだと氣が附いて、私はその足で見附から省線に乘つた。
 私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。
 其日は紀元節で、見窄らしい新開街の家々にも國旗が飜つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四疊半の茶呑臺の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食み出た褞袍を着て前跼みにごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄關の二疊には、小説で讀まされて舊知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛りの菰冠りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鐵瓶につけ、小蕪の漬物、燒海苔など肴に酒になつた。

 二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。
 圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を殘して千登世と駈落ちして來てから滿一年半の歳月を、樣々な懊惱を累ね、無愧な卑屈な侮らるべき下劣な情念を押包みつゝ、この暗い六疊を臥所として執念深く生活して來たのである。彼はどんなにか自分の假初の部屋を愛し馴染んだことだらう。罅の入つた斑點に汚れた黄色い壁に向つて、これからの生涯を過去の所爲と罪報とに項低れ乍ら、足に胼胝の出來るまで坐り通したら奈何だと魔の聲にでも決斷の臍を囁かれるやうな思ひを、圭一郎は日毎に繰返し押詰めて考へさせられた。

 只、假初の風邪だと思つてなほざりにしたのが不可かつた。たうとう三十九度餘りも熱を出し、圭一郎は、勤め先である濱町の酒新聞社を休まねばならなかつた。床に臥せつて熱に魘される間も、主人の機嫌を損じはしまいかと、それが譫言にまで出る程絶えず惧れられた。三日目の朝、呼び出しの速達が來た。熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙が零れるのであつた。
「僕出て行かう」
 圭一郎は蒲團から匍ひ出たが、足がふら/\して眩暈を感じ昏倒しさうだつた。
 千登世ははら/\し、彼の體躯につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再寢かせようとした。
「だけど、馘首になるといけないから」